■企画が発表される度に「イメージが崩れる」「原作レイプだ」「原作ファンのために作るわけじゃないからこれでいいのだ」等々と論争の火種となるのが、国内における漫画・アニメの「実写化」作品。TV局や映画会社には原作の知名度をそのまま集客に活かして若い客層を開拓できるという利点があり、最近特に多い恋愛系少女マンガの実写映画化の場合は売り出したいアイドル/若手女優の映画を作るという前提の下、ちょうどいいネタとして少女マンガが選ばれやすいといった側面もあるとのこと(『皆殺し映画通信 天下御免』収録の柳下毅一郎氏と古澤健監督の対談より)。
こういった背景から見えてくるのは、漫画・アニメ実写化作品の多くは「商業上の利点」を理由として製作されており、作り手側に「この作品をどうしても実写で描きたい」という情熱がないが故に駄作が量産されているという悪循環だ。好きな原作の実写化案件は例え地雷臭がしても可能な限り見に行くことにしているので、すべてがそんな作品ではないことも分かっているが、それでも駄作率が高いことは否めない。特に「原作をちゃんとわかって作ってます」アピールが容易な「原作のビジュアル再現」を前面にアピールしている作品は7~8割方駄作だと思っていいだろう。二次元のビジュアルを三次元に置き換えること自体がそもそも強引で、そこにばかり力を入れると単なるコスプレ大会になるのがオチなのだ(押井守監督が『機動警察パトレイバー』実写化の際に、特車二課の制服をリアルなものに置き換えたのも、コスプレ大会化を懸念したものだと語られている)。
漫画にしろアニメにしろ、作品を形作っているのはビジュアルだけではない。漫画やアニメに限らず、すべての作品においてそのキモとなっているのは物語やキャラクターの本質をいかに描くかだ。そんな基本が漫画・アニメ実写化作品では何故か抜け落ちがちなのは、やはり作り手が原作そのものと向き合うことを放棄している場合が多いからだろう(これは実写化だけに限らず「アニメ化」でも起こりうることで、一昔前までは「アニメにしてやってる」的な意識で原作を見下す作り手も少なからず存在した)。
■ならば良い「漫画・アニメの実写化作品」の条件とは何なのか? それは原作を実写で映像化する事に作り手側が意味や価値を持たせられるかということ。漫画やアニメという「ビジュアルの最適解」をすでに示している作品を、あえて実写で描くのならばビジュアル以外での最適解を見せなくてはならない。そのひとつである「生身の役者がキャラクターを演じること」に原作を凌ぐ意味を与えることに成功していると感じたのが、現在NHKで放映中の実写ドラマ版『昭和元禄落語心中』だ。
原作は太平洋戦争を挟んだ昭和という時代を生き抜いた落語家達の、芸への執着と様々な愛憎を描いた雲田はるこの傑作コミック。2016~17年にはテレビアニメ化もされ、石田彰/山寺宏一/関智一といった実力派の声優陣が劇中で見事な落語を披露していたこともあり、はたして実写ドラマはどうなることかと一抹の不安を感じていたのですが……同じ物語を描きながらもアニメとはまったく異なる肌触りを持った作品となっており、最新第五話まで毎回リアルタイムかその日のうちに録画をチェックするほどのめり込むことに。
そこまでドラマ版に引き込まれた一番の理由は、主人公である八代目有楽亭八雲=有楽亭菊比古を演じる岡田将生が見せる「生身の凄み」だ。第一話での29歳の岡田がメイクで老成した八雲となった姿は正直違和感を感じたが、時間が進む毎に後のエピソードで語られる様々な地獄を潜り抜けて「落語と心中する」という絶望へと至った八雲の「怖さ」を垣間見せ始める。
与太郎を再びヤクザの道へと引きずり戻そうとする兄貴分に対する静かでドスの効いた言動、独演会の前座で与太郎が稽古の足りない上に助六の出来の悪い丸パクリの「初天神」をかけたことに対する「いい心持ちする訳がねぇやなぁ」という静かな怒りを秘めたつぶやき、そして「鰍沢」の最中に居眠りする与太郎のいびきが響き渡たり、それに怒りながらもアドリブで持ち直しながら演じきる一連のシーンに漂うひりついた緊張感。原作やアニメではどこか飄々とした雰囲気だったそれらのシーンが、生身の岡田将生が演じることで八雲が抱える「怒り」の感情が突き刺さってくる様なシーンへと変貌したのだ。
こういったドラマ版の描写を原作の改変とみる人もいるかも知れないが、これはむしろ原作を読み込んだ上での脚本家や役者・岡田将生の再解釈ではないだろうか。助六の面影を持つ与太郎を守るためにヤクザと渡り合い、その与太郎が助六の落語をハンパに扱ったことや、数々の修羅場を潜りながら「自分だけの居場所」として研ぎ澄ませた高座を踏みにじったことを心底怒る。その時点での原作や、それを忠実に映像化したアニメでは後々語ることとしてあえて踏み込んで描かなかった部分を、岡田将生は生身の「有楽亭八雲」を演じるために取り込んでいったのではないか。同様の意図を感じたのが、第二話における平田満演じる七代目・有楽亭八雲だ。ドラマでは第五話で明かされる先代の有楽亭助六との因縁。それゆえに幼少期の初太郎が助六の生き写しの様な落語を披露した際に複雑な表情を見せるのだ。
アニメの表現力を否定するわけではないが、ビジュアルを描くアニメーターと声で演じる声優という別個の人間の成果を重ねることで成立するアニメキャラクターと、個々の俳優自身が声・表情・仕草全てに演じるキャラクターの人生や心理を乗せることができる生身の演技では、同じキャラクター・同じシーンでもそこから伝わるものはおのずと異なってくる。そして現実に極めて近い作品世界に軸足を置く『昭和元禄落語心中』においては、生身の演技に分があるように思う。
誰かに捨てられることを恐れ、自分を捨てないと約束を交わしてくれた助六や想いを交わしたみよ吉を、自分の居場所を求めて落語にのめり込んだ結果として自分から捨てることになってしまい、それを自分が憧れ追い続けた助六の口から突きつけられるという地獄を味わった菊比古の苦渋の日々。それを経てこれまでのか細さを削ぎ落とした菊比古が、ようやく探し当てた助六の前で「助六! とっとと起きやがれ! こちとらはるばる東京から来てやってんだい!」と怒鳴りつける力強い啖呵から伝わる「もう一度助六の落語を取り戻したい」という望みの大きさ。それらはすべて岡田将生が自らの体で「有楽亭菊比古」という人生を表現しようとする凄みがもたらしたものだ。地獄を通り抜けて再び助六という希望に辿り着いた菊比古が、今秋放送の第六話で味わうことになる別れと絶望を、いったい岡田将生がどう演じるのかが今から楽しみで仕方が無い。
■原作の内容をコピーするのでも、ビジュアルを似せることだけに腐心して金のかかったコスプレ大会にするのでもなく、漫画がアニメが持ち得ない「生身の演技」という最大のアドバンテージで原作をいかように表現するか。それこそがドラマ版『昭和元禄落語心中』が示す、日本における漫画・アニメ実写化作品が目指すべき形ではないだろうか。
生身の技斗の迫力で原作の世界観やキャラクターの魅力を描くことに一点集中した『コータローまかりとおる』『伊賀野カバ丸』などのかつてのJAC映画。
不死身の剣士VS大多数の敵の集団戦というクライマックスに原作のエッセンスすべてを集約させた思い切りが痛快だった木村拓哉主演『無限の住人』。
主人公・海崎とヒロイン・日代さんの人生リスタートを巡るドラマに的を絞ったストーリーと、コスプレではなく演技で日代さんを完全再現した平祐奈の好演が光った『ReLIFE』。
原作やキャラクターの纏う空気感を忠実に描きながら、物語は本気のゾンビ&サバイバル映画として再構築した『アイアムアヒーロー』。
天才高校生から平凡で善良なアイドルオタクという大胆な設定改変をしながらも、それを活かして理想への暴走と破滅のドラマを原作以上の密度でまとめ上げたドラマ版『デスノート』。
日本でのテレビドラマ版ではカットされてしまった「同性愛」「誘拐事件被害者のトラウマ」などの要素を臆することなく描き、個性派イケメン俳優が多いというメリットを活かして原作の世界を描ききった韓国映画版『アンティーク 西洋骨董洋菓子店』。
自分が思う実写化作品の成功例を思いつく限り挙げてみたが、生身の役者が演じることと実写ならではのリアルな絵作りを活かす形で練り込めば、実写化は決して炎上案件ではなくなるはず。実写で描くことに適した作品がセレクトされ、アニメではできないアプローチで原作の魅力を見せてくれる実写作品が一本でも増えてほしいと、毎週の『昭和元禄落語心中』を見ながら思う今日この頃なのでした。
●余談
ドラマ版『昭和元禄落語心中』は、岡田将生の演技以外にも実写ならではの原作の膨らませ方が絶妙なところも面白さのひとつだ。原作ではわずかな描写だった小夏の前で助六の落語を披露して「あの人は私の中で生きている」と語るシーンを、多めの尺とってきっちり「八雲の演じる助六の形」を見せながら、山崎育三郎演じる助六をオーバーラップさせてドラマ初見の人に「助六とは何者か」も伝えていく構成の妙を見せた。
さらに戦時中に落語協会の自主規制という形で、政府や軍部に睨まれそうな演目を封印した「はなし塚」のエピソードも、原作ではモノローグのみだった部分を石碑建立の様子から見せながら得意の廓噺を奪われて助六との差が開いていく菊比古の絶望へと繋げていく。
そして疎開先では足の障害故に軍人になじられる戦時中ならではの描写も絡めながら、落語の稽古もままならぬ無為な日々の積み重ねからの玉音放送での終戦を知り、外で落語を叫びながら再び落語家に戻れる喜びと助六の戦地の無事を願うオリジナル描写など、ドラマとしての厚みを加えていく工夫が絶妙なのだ。
ドラマを見た後、はなし塚のある浅草・長瀧山 本法寺に足を運んでプチ聖地巡礼。不勉強ながらはなし塚のことは知らなかったので、昨今の表現規制絡みのきな臭さから自由を守ってもらえるようにと拝ませていただきました。
そんなオリジナル要素の一つとして、戦地でのトラウマから酒浸りとなって落語協会から追放された名人・木村家彦兵衛(演じるのはドラマの落語指導を務める柳家喬太郎)から、後の菊比古(八雲)の十八番となりドラマを貫く柱でもある「死神」の稽古をつけてもらうくだりも見応えがあった。地獄を垣間見た老落語家だからこそ語れる落語に心を奪われて、菊比古が自分の落語家としての道を見出すという原作の補完であると同時に、その「死神」に心惹かれて与太郎が八雲の下に導かれるという第一話の図式とも重ね合わせる、見事なオリジナル要素なのだ。
とはいえ、ある作家さんとこのドラマ版について話した際に「やっぱり役者のやる落語はイマイチ」と一話で切ってしまったという話を聞かされ、そういう見方もあるのかと考えさせられたことも。自分としては十分クオリティ高いと思うのだけど、やはり落語通から見ると今ひとつなのか……ただ、このドラマは落語そのもののより「落語家という生き方」が主題だと思うので、そこにこだわりすぎるのも野暮かなというのが自分の考えですね。